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2006年09月02日

ティーチャー-スチューデント、か 師匠-弟子 :仮面を剥ぎ取る

私は、ここで故意に上タイトルの単語で使い分け、《せんせい》という言葉を避けることにした。日本では、何かの道に詳しい人を《せんせい》と敬称で呼んでおり、広範囲に様々な状況で使用されている。そのため、ここで私が説明したい意味と混同される可能性があるので、意図的に上の言葉を用いる。日本人以外の人は、柔道や空手でこの単語を耳にし、フランス語のMAITRE(マスター、マエストロ)の意味のみとして、早まって誤用していると思われる。日本とフランスという全く異なった文化を持つ国で、全く同じ意味を持つ単語を見出すことは非常に難しいことである。

この部分を読む人にその意味をより良く理解してもらうため、師匠、弟子disciple - maitreの関係を説明したい。これも翻訳用語ではなかなか完璧に一致しないであろうから、師匠-弟子と日本語の単語を使って説明したい。

ティーチャー-スチューデントの関係と違って、師匠-弟子の関係は一方的には成り立たない。
(上で<せんせい>の言葉を使用しないとして、仏語ではプロフェッサーとしてあるが、以下日本語では、ティーチャーを先生、スチューデントを生徒と訳す)

単なる先生-生徒の関係では、通常、教える側が《候補者》となり、決まった授業、レッスンを様々な宣伝、広告などを通じて提案するのが殆どである。その授業内容は、何を何時どのくらいの期間教えるのかはっきりしており、その代償となる報酬もはっきり固定表示されている。

一方、教わる側生徒はその役務の消費者であり、その立場から批評したり、場合によっては反感を持ったりできる訳である。決まった授業料があるから、生徒はそれを払えば、一応自分の義務は果たしたと思いがちである。

こういった関係は、互いの役割をそれぞれがきちんと認識していれば、完璧に釣り合いが取れていると言える。

こういった状況が、ほとんどの稽古事で納得できても、残念ながら、わけのわからぬ格闘技を《武道》と勝手に称している(これはおそらく、歴史を持つ文化組織の一員になったつもりで自分とその活動の価値を上げたと思っているようだが、その規律や責務を全く尊重していない)一部の者に関しては、納得できかねる。

彼らにとって、教える人は自称師匠で、教わる人は弟子だと思い込んでいるにも拘らず、前に挙げた一般の習い事同様、先生-生徒の関係を相変わらず保ち続けている。一般の素人には、その判断はかなり難しい。おそらく、それで当然なのだろう。彼らを弁解するならば、師匠-弟子の本当の関係を経験したことがある者は、かなり稀で「知るものぞ知る」であるから、無理もない。しかし中には、教える立場として、他では得られない≪権力≫のようなものを見出し、満足感に浸って者がいることは遺憾である。

日本では、≪弟子は己の心の準備が出来たときに、その師匠に巡り合える、また、その逆も然り≫と言われる。

これ以外の場合は、前に説明した先生と生徒の関係にとどまる。その関係が無意味というわけではない、ただ武道の価値を追求するとなるとそうはいかない。この先生-生徒(ティーチャー-スチューデント)の関係については、比較の材料としてこれ以上は触れない。

武道でいう弟子とは、まず常時他者に注意を払うことである。

これは、≪侍、サムライ≫への道であり、たとえ戦国時代の武士の称として使用し、時代錯誤の言葉であろうと、現代もしっかり生きた言葉である。侍とは、日本語の最もへりくだった言い方で、≪さぶらう、位の高い人に仕え、いつなんどきでも必要なときをひたすら待ち、忠義を尽くすこと≫ これ以外の何ものでもない。ただし、うまく仕える為には、見返りを期待することなく奉仕し、常に向上し続けることが大切である。この姿勢こそが、模範となる態度を養う道へと弟子を導く、それはまず、師匠に対して、先輩に対して、他の兄弟弟子に対して、そして更には人生で知り合う全ての人に対しての≪礼儀≫を重んじることから始まる。これは、自分の所属する旗を掲げ誇りとし、伝統を守ろうと時間、労力、気力を捧げている人に対する感謝の気持ちからなる。

全ての規律や作法を記した書物はない、ここで言う態度や姿勢とは、強制的に押し付けられたものではない、心の持ち方の問題なのである。
そうすると、師匠と弟子とは、≪こころ≫が支配する日常の密な関係であると言える(≪こころ≫については別のテーマで触れる事にする)。

従って、弟子とは何をするべきかといったリストを作ることは無意味である、なぜなら、とるべき態度や姿勢とは、その時の状況によってそれぞれ異なっているもので、限界なく常に向上できるものであるから、無理に言葉で書き留めようとすると、
その無限の可能性を減少させてしまうことになりかねない。

大切なことは、常に他人に耳を傾ける姿勢を持つこと、道を教えてくれる師匠や先輩、年長者達の経験、助言などに常時注意を払うことである。日本では、≪大和魂、一を聞いて十を知れ≫と言う。

週に1回か2回の、またそれに必ず来るかどうかも不確かな集団レッスンである単なる先生-生徒の関係だと、私の説明したいところの本来の≪教え≫とは、ほぼ遠い。

何の見返りも期待しないということは、何も見返りを受けないという意味ではない。

師匠の唯一の目標は、人生にかけがえのない大切な価値を教え、伝承することにあり、その信念を貫くことが不可能になったとき、その昔ある者は切腹をし、無の人生を送るより立派な死を選んだほどだ。

師匠と弟子とは、出逢ったとき、互いに分かり合うものだ。もう何年も前のことになるが、池田茂夫先生と私の場合がそうであった。逢った瞬間、互いに感じるものがあった、たとえ一方がこの世を去っても、我々のこの関係は終わりがない。

我が師匠は、見返りを一切期待されなかった、しかし、私にはまだまだお返しが残っている。

このような関係の道に入るには、互いが心を開き、相手の心の内が読める≪心意気≫を持って接することが必要である。このような関係であれば、様々な誤解や過ちを避けることができる。しかしながら、互いに、相手が求めている人物になりすまして、己の気持ちを偽装し、≪澄んだ心≫につけこむことは簡単である。
私は、何度かこのような苦い経験をさせていただいた。何年かで化けの皮が剥がれていった偽装心を、長年、自分の心を開いて受け入れ、様々なものを与えていった。

それでも何も見返りを望んでいたわけではないから、一切後悔はない。
今も私と共に残って、日々向上を続けている弟子達を誇り高く見守って行きたい。

ある日、私は我が恩師池田先生に、長年にわたって受けてきた先生からの恩をどのようにお返ししたらよいかと尋ねたことがある。先生は、≪返さなくてよろしい!他の人に返しなさい!≫と言われた。

師匠と弟子は、一体のものであり、片方のみでは存在できない。
一旦この関係が生まれたら、たとえ片方の死でさえも、これを崩すことは出来ない。むしろその逆である、、。本当の師弟の関係では、弟子はその師匠に絶対的な信頼の姿勢で接し、また、師匠は、その信頼に応えて、あらゆる人生の状況にふさわしく正しい振る舞いを弟子に教えるべく、模範となる責任のある行動、態度をとることが必要である。
師匠は、それぞれ弟子に合った訓育をし、その最善の向上を図る。
このような弟子の進歩とその努力の報いで、師匠もまた己自身の追求の向上を見ることができる。

我が師匠となる人を待つ、我が弟子となる者を待つことを知る

これは、時間を無駄にするという意味ではない。何年掛かろうと、その≪出逢い≫のため心構えをしておくこと。≪この人だ≫と気づくためには、それなりの準備が必要である。つまり、形でしかない技やテクニックが上手であればあるほど、精神面がともなってないことを隠しやすい、このような偽装心が多い中、その技やテクニック以上の本来の教えを伝える人格者と見ての出逢いに構えておくこと。

このような状況だと、弟子は師匠の教えに感謝と敬意を払うためにも、師匠を越えようと切望する。師匠はそして、いつの日かその弟子が自分を越えて成長するよう常に貢献する、こうすることにより、代々教え伝えてきた前世代師匠達に感謝を表す。