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2007年01月18日

武道はスペクタクルではない、、、≪目に映る姿は本物の姿か?≫

私は、派手なアクションだけが売りものの≪武道≫のスペクタクルショーを出来るだけ避けるようにしている。ただ、友情のよしみで何度か参加したことがある。そしてある日、このような演武紹介に参加する者の目的と観客人が得る結果とを分析してみた。結果は栄光とはまったくほぼ遠いものである、なぜなら意識的か否かは知らないが、観客に奇術師の演目を観せ、心理的に麻痺させる或いはさらにひどく、信頼を裏切るとんでもない企てに参加するだけだ。

誰かがスペクタクルをする場合も、≪デモンストレーション≫という用語を使っているが、一体どんな真実をデモントレ(証明する、明らかにするの意味)するのかを考えると、大変重い言葉である。

自分が一番強い? 一番すばやい? 一番何?

スポーツ格闘技を観に行くと大変わかりやすく事は明らかである。点が入り、勝利者が発表され、賞が与えられる。だれも最後のアクションには、哲学的要素があったなどと説明しようとはしない。

しかし、我々の場合は全く違う、もし私が行なう居合のイメージを観てこれが武道だと信じさせているとしたら、私はうそつきだ。

ある者は精神性に飢え、またある者は認めてもらうこと、名声が必要、または金のためにといった芸術の見せかけのイメージのみを学んだテクニシャン達の集まりにしか過ぎない。鏡は3D(3次元空間)を持つかの錯覚を与えるが、実際には鏡に映るイメージは平面である、奥行きがないのだ。

武道は、可能なかぎり完璧に要求、目標を満たすのに全ての良識を盛り込んだ≪自分のあり方の状況≫で、私の言う良識や要求、目標とは我々の探求しているもののことである。

毎日の先ずはの目的である、技術、技の表現、上達、しかしこれは武道ではない。

練習時のイメージ(かたち)の手直しは、もっと奥深い目標を持つ身体的表現に磨きをかける道具の一部にしかすぎない。

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