Ok

By continuing your visit to this site, you accept the use of cookies. These ensure the smooth running of our services. Learn more.

2006年08月28日

無限の進歩を追い求めて、、、

武道という芸術を嗜むものに、上や下のレベルをつけることは、私の芸術に対する見解にはそぐわない。私にとって芸術とは、見えるものの背後にある真実の追究で、芸術家がそれぞれその追究の過程で何かを生み出すことにあり、レベルをつけることではない。ピカソがミケランジェロより優れていたとか、モーツアルトがショパンより、ボードレールがアポリネールより上だと誰が言えるであろうか?彼らをどのランクに位置付けできるであろうか?宮本武蔵、佐々木小次郎、坂本龍馬のレベルをランク付けれるものがいるだろうか?

他の箇所で説明したとおり、技、テクニックは何かを築き上げる基盤、手段(サポート)でしかない。その技、テクニックに成績をつけることは、学ぶものに良い成績を得るためだけに努力するという考えを植えつけてしまい、本質から外れる。これは肉体的パフォーマンスで評価し得るスポーツの世界であれば、十分理解できる。しかし、武道の世界ではあり得ない。

しかも大変無念なことに、ある一部の団体では、技によって段を授与することは、精神面の価値をも兼ねると思わせている曖昧な点があることだ。無論そんなはずはない、しかし新入りには、当然のように思われている。

より優れた技、テクニックを追求し練習を重ねることで、武道人生の初めのうちに技術向上できるとすれば、年と共にいつかは衰え始めるこの技というサポートを十分に活用するためにも、出来るだけ速く上達することは大切だと言わざるを得ない。しかし、正しい教えのもとには、いつかそのサポートである技の修行から、無限の<心>の修行へと進化していくことに気づくときがくるであろう。
こういった背景では、それぞれのレベルは主観的なものでしかない。どの芸術家がその分野で一番だと思うことがそれぞれ自由であるのと同じように…。

人の権力願望は、多少なりとも他のものと比較できる客観的階級によって評価されたがり、これにより所属するグループ内で確固たる地位を築きたがる。そうなると、技、テクニックの練習のみに留まり、本来の教えからはずれてしまう。

師匠と弟子の間柄には、何人も入り込むことは出来ない。増してや、見せかけの階級関係を作る組織構造が、敬意と信頼、互いに向上し合う信念と自由意志に基づいた師弟関係に入り込むことなどできるはずがない。

しかし、残念なことに、多くの者は技術向上することを最終目標とし、技術のみで武道が上達したと信じている。技術レベルの授与により、存在しないもう一方(精神面)の価値の所持者だと思い違いをし、年とともにその技術から見捨てられ、残るはとうの昔に失った技術レベルの賞状所持者というだけである。武道の修行において、このようなレベル付けは無駄で矛盾しているだけでなく、限界のある段階の位置付けは、昇段のみを目標とする練習に留まってしまうことになりかねない。


私が追求するものは、我が師匠池田茂夫先生同様、どんな不可能事も達成できるという信念の追求である。

我々の野心は先代と師匠のレベルに達し、それを超えることである。なぜならそれが師の教えに対する唯一の感謝の表現だからである。私は我弟子達をこの方向へ導きたいと切望している。師匠とは導く者であり、正しい意味での上達、向上の請負人となるべきである。

The comments are closed.